人間は本能を理性でコントロールできる機能を持っているのに、なぜ浮気・不倫は後を経たないのでしょう?
日本では不貞が厳しく罰せられる「結婚」のシステムが8世紀頃に確立されました。また、国によって制度は違いますが、今ではほとんどの人が「浮気・不倫はいけないこと」という意識を持っていると思います。
「相手が魅力的だったから」や「夫婦仲が良くなかったから」などの小手先の理由ではなく、人間の根本にある「エロティシズム」について思考したフランスの哲学者ジョルジュ・バタイユの哲学から「なぜ人は浮気するのか」というテーマに迫っていきたいと思います。
ジョルジュ・バタイユって誰?
ジョルジュ・アルベール・モリス・ヴィクトール・バタイユ(1897- 1962)は、ニーチェから強い影響を受けたフランスの哲学者、思想家、作家。
梅毒に侵され目が見えなくなり、排泄も一人でできない父親の介護を家族でする壮絶な子供時代から、第一次世界大戦を経験し「神は死んだ」で有名なニーチェの影響により無神論者となりました。その後、パリ国立図書館に勤務しながら数々の書籍を執筆。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バタイユはかなりの変態
wikipediaには華麗な経歴しか書かれていませんが、私生活でのバタイユは、本当にどうしようもなく自堕落で、人間の屑のような変態でした。
- 夜になると娼婦街にくりだし、そこで昼間稼いだ金を湯水のように使って淫楽にふけった。
- 友人に「二人の間での性交と何人もの間での性交とでは、風呂に浸るのと海水浴ほどの違いがある」と語った。
- 母親の遺骸に性的衝動を覚えて以来、死姦(死体と性交すること)の妄想に捉われていた。
これらは全てバタイユの書籍に書かれていたことです。彼自身、自分の体たらくに心底慎悩して、夜のパリの街角であたりかまわず鳴咽にむせぶことがしばしばあったとのこと。
エロティシズムとは
バタイユのエロティシズム論を理解するために、資本主義における労働と道徳、そのなかで生じる「聖なるもの」を説明します。
近代社会の労働について
バタイユは「物質的世界は戯れでしかないのであって、労働などでは断じてない。」と近代社会について話しています。
人間の生の真の目的が非生産的な消費(例えば葬儀、戦争、豪華な大建造物、遊戯、見世物、芸術、生殖目的からそれた性行為)にあるのにもかかわらず、近代社会は生産と蓄積という人間の生にとっては手段となる活動ばかりを重視してきました。消費が肯定されてもその消費は生産に貢献する消費でしかありません。
これを指導してきたのはブルジョワジー(資本家階級での上層階級)ですが、これに敵対するプロレタリアート(労働者階級)の内部には破壊の力が沸騰しています。この力はまた、革命的展開をするよう差し向けます。この階級闘争、プロレタリアート革命こそは社会が実現しうる最も大きな非生産的消費であり、労働者が求める生の目的なのです。
道徳の機能
バタイユは、この労働が禁欲によって成立している点に注目しています。労働する人間は、自分の社会的立場を減ぼしかねない動物的欲望を抑制しておく必要があります。が、この抑制は一人ではうまくいかないので、普遍的な制度である道徳が必要になるのです。動物的欲望が現れるのを悪として断罪するために。外的な事物でこの欲望を引き起こすものがあれば、道徳はそれに近づくことや触れることも罪悪とみなし禁止していきます。
重要なのは、この禁止への欲求が生じたときに「聖なるもの」への感情も同時に生まれてくるということ。聖なるもの、これはあくまで人間の主観の問題であり、感情あるいは意識としてしか存在しません。動物的欲望で充満している動物たちには聖なるものへの感情がないのです。主観、つまり主体としての意識が確立されていないからです。意識をともなった個体としての自分(社会的立場)を確立しようとする欲求が、非個体的なものへの意識を生誕させるのです。
聖なるものとは
バタイユが第一に注目したフロイトの著作である「トーテムとタブー」(1913)のなかで、フロイトは、見ること、触れることを社会的に禁じられた事物を取りあげ、これに対する人間の矛盾した心両面的な感情を問題にしています。この場合、禁止された事物とは、不潔で危険で醜いもの、例えば人の死骸です。人間はこれを恐れ、嫌悪する感情を持つ反面これに触れてみたい、これを間近で見てみたいとする心理を無意識的に持っていて、言い換えれば、この事物は、人間を恐怖感、嫌悪感で遠ざける力を発すると同時に、人間を引き寄せ誘惑する力を放っているのです。
つまり聖なるものは、禁止された事物それ自体を指すのではなく、これらの事物に接し内部の力が刺激された場合にその人間のなかで起きるかもしれない怖れと喜びの感覚のこと。
聖なるものを感じるためには、道徳によって禁止されていたもの、悪とみなされていたものは、たかだか個体の維持のためにそう処置されていたにすぎないということをしっかり知っておく必要があります。禁止を破って悪をなすことが、実は狭い人間性を超えてゆく行為であり、そしてそのようにして得られる聖なるものの感情が人間の深い可能性なのです。
性の体験における聖なるもの
性の体験において人は、素朴な陶酔感を超えたところ、道徳の範疇を超える性の体験で、個別的人間存在への否定(社会的立場の崩壊)の危機に直面します。これをもたらすのは、人間の内部に潜む力。強度を増し溢れる力が人間の一体性を破って個別的人間存在への否定をもたらすのです。バタイユの考えるエロティシズムの体験とは、まず力の湧出に身をまかせ、個別的人間存在への否定の一歩手前のところまで来て、自己の個体の破れを部分的に感じながら生きること。
バタイユのエロティシズム論は、着衣の人も、全裸のままでいる人もひっくるめて個体の存在の危機に放り込むことに本質があります。
全裸で仕事をする人も着衣のまま仕事をしている人間と最終的に同じになります。なぜなら、全裸の人は個定的な善の価値のなかで全裸になっているのにすぎないから。そのため、衣服を着て労働することは善だと考え、これを実行している人間と同じ不動の実体になっているのです。いや自分はそのような着衣の社会的道徳を無視しているのだと全裸の人は言い張るかもしれません。しかしそういった反道徳的な意識というのは瞬間の出来事であって、持続的な状態には結びつかないのです。
特に厳格なカトリシズムの世界にエロティシズムは存在します。そこには厳しい戒律があって、その掟を破れば罪。罪を犯したものは、いやでも神に直面せざるを得ません。エロティシズムというのは、そういう過程を辿って裏側から神に達することなのです。
なぜ浮気するのか
本題です。バタイユのエロティシズム論からこの問題を見ると、人が浮気するのは「道徳に反して悪をなすことで得られる聖なるものに人は魅了されるから」です。「聖なるもの」とは、意識のなかに現われる恐怖と陶酔の感覚です。
「浮気は最低」などと社会的道徳で縛りつければ縛るほど、「聖なるもの」は強まり、浮気・不倫は減らないのだと読み解きました。
全裸の人と着衣の人の例のように、もし仮に複数の人との性交渉が道徳的だとされる世界があったとしても、「聖なるもの」を得るために一人の人と愛し合いたいという人は出てくるはずです。
浮気や不倫についての悩みは終わらない永遠のテーマだと思いますが、悩んだときは哲学から幸福への道を探してみてもいいかもしれませんね。