「本当の愛って何だ?」メルロ=ポンティの考える真の愛の定義から、恋人の言う「私のどこが好き?」の正解を考える

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みなさん、ボンジュール!

前回、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読んで、「愛している」という状態について理解することができました。今回紹介したいのは、偽の愛と真の愛についてです。

今の自分の状態と照らし合わせながら、それが「真の愛」なのかどうか、確かめましょう。

メルロ=ポンティって誰?

メルロ=ポンティは1908年フランスのロシュフォールに生まれました。18歳のとき高等師範学校に入学し、サルトル、ボーヴォワールらとはここで知り合い、友人関係となっています。戦後はパリ大学文学部教授となり、児童心理学・教育学を研究する一方、冷戦激戦化の状況の中、マルクス主義に幻滅し、サルトルとは決別しました。

メルロ=ポンティは、身体から離れて対象を思考するのではなく、身体から生み出された知覚を手がかりに身体そのものと世界を考察することを得意としました。1961年、パリの自宅で執筆中、心臓麻痺のため急逝しています。

メルロ=ポンティはヒーローや愛などの「人生の意味」をテーマにすることが多くありましたが、ここでは「愛」に絞ってまとめていきます。

愛は「生きられたもの」

 

メルロ=ポンティは物事を「生きられたもの」と「認識されたもの」に分けました。

「認識する」とは行動を分解して諸要素に分け、それらの諸要素が組み立てられる原因を発見してから、今度はその原因から行動を説明すること。
それに対し「生きられる」とはあなたが行動するときに感じ取っているもの。

「血中にアドレナイリンが放出されて、心臓の鼓動が増えた」(認識されたもの)

と、

「どぎまぎしていた」(生きられたもの)。

実存は「認識された行動」に対して我々によって「生きられたもの」を理解するときに現れてくるとし、愛を「生きられたもの」としました。

「生きられたもの」とは「夢のようなもの」

「生きられたもの」は、夢のようなもの。それは、「志向的侵犯」で認識されます。
「志向的侵犯」とは、自分が認識の中心から外されてしまい自分の置かれている状況が認識の対象になってしまうことです。

例えば、

  • 他者を見ようとしているのに、他者の眼差しによって見られているようになること。
  • 作品を作り出そうとしていたのに、作品が完成を求めて自分のあるべき姿を支持して来ること。
  • 自由に歩き回って気に入った光景を捉えようとしていたはずなのに、ふと気づくとその光景によって最もふさわしく光景が捉えられる位置に自分が向かわされていること。

思い当たる節がありますか?メルロ=ポンティは愛も同じだと説きました。

偽の愛と真の愛

メルロ=ポンティは愛には2種類、「偽の愛」と「真の愛」があると言います。

偽の愛

偽の愛は、行為や言葉の上だけでなされており、意味ある行為をなそうとするばかりで、かえって「その人の存在やことばが、思想や行為と一致してない」愛。

偽の愛が終わるときはただ、相手と自分は一面でしか関わっていなかったと見出します。
その一面とは、

  • 母親の代わりを探していた
  • 将来に不安を感じていた
  • 利害や主義が一致していた
  • 孤独だった

などです。

真の愛

真の愛は、二人の間に真の意味での愛があるとすれば、二人の双方の側において、二人の行為が「人格全体に」関わっていく愛。

真の愛によって自分が変わったので、世界が違って見えてくる。以前と同じ平凡なもの、いつもと変わらぬ周囲の人々の発想が急に新鮮に感じられる。そうことが劇的に起きるのです

真の愛が終わるときは、その人の人格全体が、その愛を通じて変容してしまいます。

「相手から影響された」程度ではなく、相手を変え、自分を変容させてしまうのです。
そのあとでは、もはやそれまでと同じように生きていくことができない。
それほどの他者との出会いを真の愛と呼びます。

真の愛を見つける条件

本当に愛してもらうためには、まず相手は自分を愛したり愛せなかったりする自由を持っていないといけません。

命令や威嚇、誘惑や代償は無効。
また、真の愛は「真の人間」「病的でない」「成人である」人間において生じるのです。

われわれは意味の刑に処せられている

覚せい剤をやって「人間やめますか」と言われるのはとても難しいものがあります。人間だからこそ、覚せい剤をやってしまうのでしょう。ただし、そのあとで人間でなくなってしまうという不可逆的過程に入ります。

一体人間ってなんだ?それは、実存なのです。

時代がサルトルの「実存主義」に沸いていた頃、メルロ=ポンティも「実存」について言及しています。
しかし、彼の実存主義とは、人間のなすべきことを指し示ものであはりませんでした。

彼はサルトルの言った「自由の刑」に対して「われわれは意味の刑に処せられている」と言いました。それは我々は真実を問い、意味を発見しないではいられないということです。

彼は、ソクラテスが死刑になったのは一言多かったからだと述べています。人が信じているものに対して、ソクラテスはなぜ信じられるのかの根拠を述べようとしますが、それこそアテネの市民にとって信じることにおいては必要のないもの、邪魔になるものであり、彼が死刑になった理由なのであるといいました。

我々は否応無く意味を通じて考え、意味を通じて生きるしかないのだし、そのように考えるときには、どんなに無意味にも意味があるといいます。だとすれば、メルロ=ポンティ哲学を一周してみると、「人生には意味がない」ということも、十分意味があるということになるのでないでしょうか。

愛の意味

自分たちの愛は「真の愛」だと言いたいですよね。しかし、その愛の意味を認識する、または意味があるから愛しているというのは「偽の愛」ということになってしまいます。

「私のどこが好き?」と聞かれた時に「よくわからないけど好き」というのがメルロ=ポンティのいう「真の愛」なのでしょう。

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