「困難に直面したとき、人はどう生きるべきか」マルクス・アウレリウスの「自省録」を読んで幸せな生き方をまとめた

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みなさん、ボンジュール!

生きていると楽しいことばかりじゃありませんよね。今回紹介する「自省録」には、辛いことが起きてどうしようもなくなったとき、困難に直面したときに人はどう生きればいいかのヒントがあります。著者の第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウスが自身を叱咤激励するために書き続けた短い文の覚書のような本です。

マルクスは一度自分宛に書いたにも関わらず繰り返し同じ過ちをしてしまったことが何度かあったようで、この本には同じようなことがその都度書かれており、2000年ほど前に生きた彼の人間らしさを感じます。

悩み事があるときに読み返して解決のいとぐちを掴むため、その本の内容をまとめたいと思います。

著者のマルクス・アウレリウスって誰?

161年〜180年にローマ皇帝として在位したマルクス・アウレリウスは、若い頃からストア派(自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服してゆくかを説く哲学)の哲学に励み、哲学者を目指していました。

しかし、その教養の高さが認められ、皇帝として就任してからは多忙な職務のかたわら哲学的な思索を好み、哲学で国を収めようとしました。「自省録」はその思想を直接知ることのできる、彼の唯一の著書です。

悩める現代人への「処方箋」

アウレリウスは

「我々を守ることができるのは、ただひとつ哲学だ」

と言い残しています。現代の私たちにも当てはまる人間関係の悩みの解決方法、悲しみからの立ち直り方、幸せに生きるためのヒントを自分の経験と照らし合わせながら考えるきっかけにしましょう。

だいたいの悩みの原因

お前が何か外にあるあるもののために苦しんでいるのであれば、お前を悩ますのは、その外なるものそれ自体ではなくそれについてのお前の判断なのだ。
事物は魂に触れることなく、お前の外に静かにある。
苦悩はお前に内なる判断からだけ生じる。
お前を悩ます余計なものは、全てお前の判断の中にあるので、お前はそれを除去できる。
お前の内を掘れ、掘り続ければ、そこには常にほとばしり出ることができる善の泉がある。

 

ここでいう善とは「役にたつもの」で、悪とは「役に立たないもの」です。

あなたを苦しめているのは職場のいじわるな女ですか?通勤電車の窮屈さですか?恋人の裏切りですか?それらは全てあなたの外にあるものです。

職場の人間、通勤電車、恋人それ自体があなたを苦しめているのではなく、それについてのあなたの判断があなた自身を苦しめているんです。

難しいかもしれませんが、外のものについて判断を下さずに自分にとっての「善」(役にたつこと)を考えましょう。

むかつくアイツへの対処法

これらのすべて(アウレリウスを怒らせたこと)が生じたのは、彼らが善(役に立つもの)と悪(役に立たないもの)について無知だからだ。
怒らずに教え、そして示せ。
復讐する最善の方法は、自分も同じようなものにならないこと。(戦いの舞台から降りること)
人間は互いのために生まれた。だから教えよ、さもなくば耐えよ(寛容になれ。怒りの感情から自由になれ)
絶えず波が打ち寄せる岬のようであれ。岬は厳として立ち、水の泡立ちはその周りで眠る。
「自省録」にはこのむかつく奴への対処法が何度も書かれてあります。ローマ皇帝でさえも人間関係には悩みその度に自分のために書き留めました。
職場には嫌なやつは存在してしまうものです。しょうがない。
いやな奴に善(役に立つもの)と悪(役に立たないもの)について教えるか、怒りの感情から自由になった状態で耐えましょう。

承認欲求について

およそどんな美しいものもそれ自体で美しい。賞賛を自分の部分として持たず、それ自体で完結する。
賞賛されるものがより悪く、あるいはよくなるというものではない。
批判されても価値は下がらない。自分の価値は誰かの評価とは関係ない。

人は誰しも承認欲求を持っています。しかし、自分が思う美しいもの、価値があるものは誰かがそう言ったから美しい、価値があるわけではありません。
賞賛されることだけを目指して行動するのは不自然です。

他人の意見を求めすぎる、気にしすぎるのはやめましょう。

途方もない悲しみに襲われたとき

悲しみは不幸ではない。
お前自身には成し遂げ難いことがあるとしても、それが人間に不可能なことだと考えてはならない。むしろ、人間にとって可能でふさわしいことであれば、お前にも成し遂げられると考えよ。
今後はお前を悲しみに誘うものにあっても常に次の原理を用いることを覚えておけ。それは不幸ではない。むしろ、それを気高く耐えることが幸福である。
悲しみを真正面に受けて気高く生きる。
悲しむことと不幸であることは同じではない。悲しみは抑えなくてもいい。
アウレリウスは13人の子供をもうけましたが、そのうちの7人を失い、さらには最愛の妻まで亡くなってしまいます。その悲しみは想像できないほど深かったでしょう。
しかし、親しい人を無くしたのは人類の歴史上自分だけではなく、先人たちはそれを乗り越えてきたので自分にもできると考えています。
悲しいときは悲しんでいいんです。でも、それは不幸ではありません。

よく生きるということ

すべての事象は「善悪無記(善(役にたつ)でも悪(役に立たない)でもない)」であることを知っておくこと。あらゆる事物はそれ自体では善でも悪でもない。財産、地位、成功、健康、優れた容姿は自分にとって幸福、善だとしてもいつ失うかはわからない。それ自体では幸福ではない。
また、事故病気になったからといって不幸ではない。
善悪無記に捉われなければ幸福になれる。

 

幸福になれるように判断する理性のことを「ロゴス」といいます。

そのロゴスが整った状態を「アレテー」(徳=魂が優れていること。善悪を知っていることが人間にとっての徳。)といいます。

財産、地位、成功、健康、優れた容姿にはアレテーが伴えば、(魂が優れていれば)「善」=幸福となるのです。

逆にアレテーがなければそれらは悪となります。あらゆる物事はアレテーによって幸福に結びつけることができるのです。

そのためにも、絶えず自分に問い続けなければなりません。

運命を受け入れる

起こること全てを難儀なことのように思えても喜んで受けいれよ。
どう受け止めるかは自分で選べる(人間の自由意志)
起こることは全て正しく起こる。
お前が今いる状況ほど、哲学するのに適した生活はない。

ここでいう難儀なこととは大きな天災、事故、病気などの自分ではどうしようもなく、他人ではなく自分に振りかかる不幸のことです。なので、不幸なことがあった友人に「受け入れよ」なんて言ってはいけません。

アウレリウスの場合は受け入れざるを得ない困難が多かった人生ですが、私たちは回避でき、悪(役に立たないもの)と判断したならば逃げることも必要です。

死について

たとえお前が3000年生きながらえるとしても覚えておけ。
誰でも今生きている生以外の生を失うのではないこと、今失う生以外の生を生きるのではないことを。だから最も長い生、最も短い生も同じことだ。
今はすべての人に等しく、したがって失われるのも等しい。
過去と未来のことを失うことはできないからである。
持っていないないものをどうして彼らから奪うことができようか。
自然に一致して生きることを幸福とし、「死=生」として捉えているアウレリウスは死を宇宙で起きる現象の一つ、生まれることを悲しむことがないように死も悲しむことがないと言いました。
「今ここを生きる。」過去はすでに生き終えたのでどこにもなく、未来も不確か。
アウレリウスは未来に必ずやってくる死を恐れることなく、今だけを生きると自分に言い聞かせています。
全ての行為を生の最後の行為のように行う。
あの時できた最善の決断をしたと思ったら自分を許せる。
人格の完全とは、毎日を最後の日のように過ごし、激することなく、無気力にもならず、偽善(死など怖くないと虚勢をはること)をしないこと。
既に死んでしまったもののように、今までに生を終えてしまったもののように、今後の人生を自然に即し余徳として生きなければならない。(一人で生きているわけではない。何らかの形で与える生き方をしなければならない)

最後に

2000年前の皇帝も人間関係に悩み、死について考え、幸せになるために模索していました。だとしたら、私たちは同じ悩みをもったときに先人の残した知恵を借りて少し早めに解決し、幸せに近づけるのではないでしょうか。

「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」といいます。わたしたちは後者で生きましょう。

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